寒河江市の概要
寒河江市は山形県のほぼ中央、山形盆地の西側に位置する市です。周囲を葉山などの山々に囲まれ、市内には最上川、寒河江川が通り、美しい自然景観を見ることができます。 周辺の自治体と共にさくらんぼの産地として有名なほか、バラの産地として全国一の生産量を誇っています。
寒河江のあゆみ
寒河江市内では、古くは3万年前から1万3000年前のものと思われる遺跡が明神山で発見されています。その後も旧石器時代から古墳時代末期にかけての遺跡が市内の各地で発見されており、また当時使用されていた品も多く出土され人々の生活を垣間見ることができます。
文治5年(1189)に起こった奥州合戦で論功行賞により、大江広元は源頼朝から寒河江荘と置賜郡を与えられました。これより寒河江の地は大江氏と深い関わりを持つようになります。
大江広元は建久2年(1191)、鶴岡八幡宮から分霊を招き入れ、広元の長男・親広が社殿を移し、現在の寒河江八幡宮に至るとされています。承久3年(1221)の承久の乱では、大江親子は幕府軍と官軍に分かれ戦い、敗れた官軍に属していた親広は父から与えられていた寒河江荘に隠遁したとされます。その後も寒河江の地は大江氏に統治されていましたが、続く広時、政広は鎌倉幕府の要職についていたため、目代と呼ばれる代理人を送り、遠く寒河江の地を治めていました。1200年代後半になると、大江氏は再び寒河江の地を踏むことになります。鎌倉から拠点を寒河江に移した大江元顕は、栄仁4年(1296)の火災によって焼失した慈恩寺の復興などに努めました。
南北朝時代になり、正平22年(1367)に漆川の戦いで斯波氏との決戦に敗れた大江氏は、後に時氏の息子・元時を足利氏満に人質として差し出し和を請いました。この時、時氏は“寒河江氏”を名乗るようになったといわれています。
時が戦国時代に近づくにつれ、東北地方では最上氏・伊達氏が勢力をのばしていきました。大江氏は1479年から1480年にかけて行われた菖蒲沼の戦いでは伊達氏に勝利するも、戦が激化すると最上氏と伊達氏の勢力争いに巻き込まれ、1584年に起こった最上義光との決戦において領主の高基は近臣とともに自害しました。こうして約400年にわたり寒河江を統治していた大江氏は滅亡することとなりました。
江戸時代に移ると寒河江には寒河江代官所が配置され、宝暦3年(1753)に初代の代官として天野市十郎が着任しました。慶応4年(1868)には寒河江市街で薩長中心の官軍と桑名藩士らの激突がありました。
全国で最も早く建築された郡役所である旧西村山郡役所は、明治11年(1878)に建てられました。現在では郷土資料館として寒河江市の歴史を伝えています。
戦前の寒河江市では草履表が盛んに作られており、その生産量は日本一を誇っていました。この草履表を生産するには長い稲穂が必要で、当時は豊国という茎の長い品種米が多く栽培されていました。しかし豊国種は栽培が難しいわりに収穫量が少なく、農家の人々にはあまり歓迎されない品種でした。ところが、豊国種は醸造米にはよく適しており、寒河江川の清流と共に寒河江の醸造に貢献したといわれます。
戦後、高瀬山の麓でボーリングが行われた結果単純泉が湧き、昭和58年(1984)に新寒河江温泉が開場されました。
平成2年(1990)、全国で3番目の大きな寒河江ダムが建設されました。周辺にはスポーツ広場などが設けられ、人々に親しまれています。寒河江市は行政改革などを行い、「より美しく」「より豊かに」「より元気に」をキーワードに市を飛躍させる姿勢を見せています。
寒河江市の名前の由来
寒河江の名は、その昔相模の寒川に住んでいた人々がこの地に移住してきたことに由来するとされています。
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寒河江市郷土館 |
| 住所: |
山形県寒河江市寒河江長岡丙2707 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0237-86-7924 |
| 開館時間: |
10:00〜16:00 |
| 休館日: |
毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)、冬期間(11月中旬〜4月中旬) |
| 入館料: |
大人 100円、小・中学生50円
(30名から団体料金:大人50円、小・中学生20円) |
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